博多直送

f:id:hanya_pung:20170919225830j:image

知人からの頂き物。博多の製麺所に勤務している友人から貰ったというラーメン、スープ付き。もちろん極細ストレート。地元福岡はもちろん、東京・環七で一世を風靡した有名店にも卸していたという。

 

アドバイスされたのは、麺とスープは「必ず」別々のお湯を使うということ。麺の茹で時間はカタ好きなら1分未満が良いそう。

 

九州ラーメン、特に博多ラーメン店は東京に数多くあるが、多くは東京の若者向けにアレンジされた味付けであり、そういった類の豚骨ラーメンは御免被りたい一心である。そういった店のラーメンに比べたら、このラーメンの方が数段美味い。

不揃いなパスタ

録音業務で、2年振りの都内某スタジオ。前回訪れた際は休憩時間に隣のハンバーガー店で食事を摂り、すこぶる美味しかった思い出があり、今回も是非と思っていた。スタジオに着き、挨拶と打ち合わせを済ませた後、「今日はハンバーガー店は営業してますかね?」と尋ねたところ、「実は半年前に移転してしまったんですよ」と。それは残念、食べる気で居たのにと不満げに、残念さをアピールした。

 

その店の店主はかつてダンスを学ぶために渡英し、デビッド・ボウイのパントマイムの先生に師事した事もあるという。その際、生活のために色々な飲食店でバイトするうちに料理を覚え、帰国後もダンス活動の傍ら自らお店を出し英国料理を売っていたそうだ。

 

バンズも自ら焼くバーガーは美味であったため、今回も食したかったのだが…

 

かつてその店ではパスタも出していたそうなのだが、パスタ麺はメニューに合わせて組み合わせを変えていたんだそう。日本において麺料理に太さの異なる麺が混在していたら嫌がる人が殆どだと言う。しかしヨーロッパではパスタ麺を複数ミックスすることは当然のことのようで、その違いを楽しむケースが多いらしい。

完璧主義でクレーマーな日本人にはフィットしない考え方だったのだろう。加えて、料理人の意向も消費者に伝わっていなかったという問題もあろう。

 

思うと、このように理由ありきサーヴィスを理由なき先入観で切り捨ててしまい、真の価値を楽しめなかった、または楽しめることに気付かなかったということは多いのではないだろうか、とふと思った。食事・食文化でもあるだろうし、こと芸術分野では沢山あることは想像に難しくない。

 

情報化社会の中で情報が正しく届かない。または情報が正しく摂取されない。

 

最近借りて読んだ小説にもあったが、人はウェブ文化以降特に「読みたいものしか読まない」。タイトル至上主義の中吊り広告文化である。

寝すぎた翌日は午前中には目がさめる。コーヒー、ビールを飲み、昼食にバジルのパスタをいただく。

 

夕方より外出。楽器の師匠が久し振りに都内で公演するのを観てきた。今や年に数回しか公演がないため、なるべく足を運ぶ。師匠の世代は50代に突入したあたり。まだ若いとは思いつつも、その年代には不幸な話もチラホラあり、見れるときに見ておかねばという気持ちも少なからずある。

 

1時間程の演奏。体力的にはキツかっただろうが、変わらぬ切れ味に唸る。自分などまだまだだなと痛感。師の背を追い、私も更に磨きをかける所存だ。

豊水

昨晩は深夜2時頃に酔って帰宅し床で寝てしまった。朝7時頃に気が付き、歯を磨き入浴をして、布団で6時間眠った。ここまでで11時間寝ているが、昼寝までしてしまった。我ながらよく寝れるものだ。

 

午前のうちに実家から梨が届いていた。昨日もいだばかりの豊水だ。農家さんは台風前に概ねもいでしまったらしい。起きた後にひとつ食べたが美味い。私は幸水よりも豊水が好みだ。夏の終わりを告げる味。酸味がある方が好きだ。

 

さすがに1ダースは食べきれないので、夜にリハーサル予定だったメンバーにお裾分けした。

 

バンドリハーサルは明後日に迫ったレコーディングに向けて3時間。体力的にはしんどいが課題が浮き彫りになり、良かったと思う。

 

帰宅し遅めの夕飯。蒸し野菜と蒸し鶏。蒸し器が我が家の流行りで、季節の野菜を蒸して食べるのがたまらなく美味い。こんな幸せな食事はあと何回できるのだろうか。

多人数飲み会の歪んだ心得

昨日は送別会を行なった。この業界は退職者の送別会をしないことが多い。挫折系退職や裏切系退職、バックレなどの際は送別会などしない。「送り出してあげたい」というマインドを持つスタッフが一定以上いないと、開催には至らない。

 

送別会が行われたということは、奴もそれなりに愛されていたのだろう。良いことだ、と思う。

 

終盤に贈り物を手渡すくだり以外は、単なる飲み会であるのだが、こういった飲み会自体に奴が参加することはもう無いだろう。そう思うと寂しさもあるのだが、人数の多い飲み会においては1人1人の存在感は薄れ、「あの時居なかったっけ?」程度だ。居ても居なくてもさして変わらない。

 

私はそういう多人数飲み会が苦手であるが、歳を重ねて楽しみ方が分かってきた。自己主張や承認欲求を捨て、楽しめない会話に無理して参加せず、心静かにお酒と料理を楽しむ。余興ばかりのパーティに参加せざるを得ない時なども、じっくりと料理を食べ、お酒を飲んでいれば意外と楽しめるものだ。

 

つまるところ、何事も楽しもう、自分なりの楽しみ方を諦めずに探そう、ということだ。